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2024/09/10(火) 今後のきまぐれコラムについて

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 その時々の世の中の事象と、私たちが一生懸命やっている保育の間に、何か共通点みたいなものがあったら、書きたいなと思って始めたのが、本コラムでした。  2015年5月から2019年8月の「旧 気まぐれコラム」は、71本の執筆でした。2019年9月からは、ブログ版「きまぐれコラム」としてリニューアルし、2024年9月で、やはり71本を書きました。71本と71本、合計142本ということで、何気に感慨深いものを感じています。もっとも、全てを私ぱぱさんが書いたのではなく、ままさん、うめさん、すけさんの執筆もありますが…。  まあ、「きまぐれ」とは言いながらも、コンスタントに「月1本」を貫いてきました。しかしながら、昨今では、長い文章を読み込むという習慣が薄れてきているようで、Webの影響か、短くてキャッチ―な表現でないと、あまり受け入れられないようです。  そこで、今後は、タイトル通り、「きまぐれ」でいきたいと思います。「月1本」にこだわらないで、真に「きまぐれ」に配信をしていきたいと思います。そして、新しい原稿がない月は、今までの142本の中から、比較的良いと思われるものを、アーカイブで配信できたらと思っています。  まあ、のんびりやらせてください。 ぱぱ

2024/08/01(木) [実験]

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  ある日の午前中、年長さんの女の子が、顔の眉間部分に横筋一本、鼻の一番高いところに横筋一本、計二本の傷をつけてしまい、その痛みで涙を流していました。なんで、そんなところに、傷をつけてしまったのか、保育士が尋ねたところ、「目をつぶって歩いていたら、ぶつかった」と言うことでした。  ぶつかった場所は、テラスの手すりのアルミ枠ということでした。検証したところ、女の子の二本の傷痕と、アルミ枠の位置が、高さも間隔もドンピシャで、ここでケガをしたことが判明しました。  ところで、この女の子は、なぜ、こんな行動に出たのでしょうか? 「アルミ枠にぶつかると痛い」ということは、年長さん(5歳児クラス)であれば、今までの経験で、十分に分かっているはずです。いったい、何が、彼女の判断を、狂わせてしまったのでしょうか?  その時、私は、昔、担任をしていた、あるお子さんを思い出しました。そのお子さんは、保育中に高いところから飛び降りて、足をくじいてしまったのです。その時の言い分が、「目をつぶれば、痛くないかなぁと考えたけど、(飛んでみたら)痛かった」というものでした。  この二人の思考の共通点として、「見えるものが『有』であると仮定すれば、見えなければ『無』なのではないか?」という考えがあるように思いました。そのため、「目をつぶることで見えなくなれば、実態もなくなり、痛みも感じないのではないか?」という仮説に至ったのではないかと…。こうなったら、身をもって、実験を行うしかないのでしょう。かくして、自ら実験台となり、遂行したわけですね。そして、「目をつぶっても、痛いものは痛いんだ」という結論に至ったのでしょう。  読者の皆さんも、「分かっちゃいるけど、やめられない」こと、ありませんか? 私も、昔、感電を承知で、基盤に触って、100ボルトの電圧の洗礼を受けた記憶があります。  昨今、「マンションのバルコニーから、幼児が落下する」という事故がありますが、「もしかしたら、子どもたちは、実験のつもりで飛んでいる可能性も、あるのではないか?」と思うと、やり切れない気持ちで、いっぱいになります。日頃から、小さな過ちを積み重ねることで、大きな過ちを防ぐための知恵を、しっかりと身につけることができるのではないでしょうか?  話は戻って、「仮説を立てて、実証し、結果を導き、それを糧とする」という動きを、この女

2024/07/01(月) 役に立つってなに? (ぱぱさん)

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  「役に立つ」とは、どういうことなのでしょう?  それまで誰も認識していなかった新しい価値を発見して、世界に知らしめる。その役目を果たすことが、「役に立つこと」だと仮定します。  唐突で申し訳ありませんが、ノーベル賞を受賞した東大の小柴昌俊さんの「カミオカンデを使った研究」は、役に立つものだったのでしょうか? 現在では、ニュートリノは、宇宙に満ちあふれているが、目には見えず、触れることもできず、私たちの体をどんどんすり抜けていく不思議な素粒子であり、17種類見つかっている素粒子の中で、異様に小さくて軽い「幽霊粒子」とも呼ばれる謎めいた存在で、物質や宇宙の成り立ちの理解や、素粒子物理学の新理論の展開のカギを握るとみられているわけです。ですから、非常に役に立つのですが、研究を始めた当初は、役に立つと思う人など、ほぼいなかったわけですね。要するに、「役に立つ」なんて、「誰もがすぐに判定できるものではない」ということを言いたかったのでした。  一方で、「社会の役に立つ」という視点があげられますね。「早く一人前になって、みんなに迷惑をかけないようになり、役に立ちたい」、「苦手を克服して、オールマイティになって、役に立ちたい」、「○○の資格を取って、役に立ちたい」などです。こちらの方が一般的で、誰もが目指そうとするところだと思います。  しかし、私は思います。一人前になろうとして、そこまでたどり着いたと思ってみたところで、その先に、遥かな道のりを見つけてしまうものなのですよ。ゴールなんて、見えないんです。「みんなに迷惑をかけないように…」なんていうことも、できないですね。私なんて、60歳を過ぎても、日々、皆さんに迷惑をかけ続けています。そもそも、「苦手は大切な個性でもある」のに、それを打ち消そうとする、すなわち、「オールマイティを目指そうとする」から、ありのままの自分を受け入れることができなくなり、今を楽しく過ごすことができなくなっているように思うのです。要は、「人は、みんな完全ではない、たいして役に立っていない」という事実に気付くのです。  「○○の資格を取って、役に立ちたい」ということは、「役に立つ」と判断する者にとって、都合がいい場合に成立します。ところが、同時に「すぐに結果が出ることがいい」という要素と結びつくと、プレッシャーになりますよね。「いつか、取ってくれたら、

2024/05/30(木) 答えを急がない力 (ぱぱさん)

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 今回は、ちょっと古い記事ですが、2024年1月3日の朝日新聞から載せますね。  作家・精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんは、「『素早く答えを出す』のは、ふつうの能力と考えられているが、『そこ』には落とし穴がある。見落としてしまう。浅はかな理解にとどまってしまう」と警鐘を鳴らしています。そして、記事の締めくくりとして、「相手を『敵』と決めつけて、一気に答えを出そうとしてはいけません。問題を解決できなくても、切れずに、何とかもちこたえていくことが大切です。寛容が踏みにじられた先に、戦争があります。寛容を保つことこそ、平和を支える精神だと私は思います。」と述べられています。  ところで、先日、川口市主催の保育所等職員研修に参加しました。講師の先生のお話によると、保育園を利用する保護者の相談内容を集計した結果は、次の通りだったとのことでした。子どもを育てるということと、悩み多きことは、イコールであることがうかがい知れますね。 ・子どもの発育状況に関する悩み・・・32% ・子どもとの接し方・・・・・・・・・20% ・噛みつきなどの問題行動・・・・・・17% ・偏食に関する悩み・・・・・・・・・13% ・発達障害に関する悩み・・・・・・・10% ・その他・・・・・・・・・・・・・・・8%  相談内容の具体的な、よくある事例として、次のことがあげられていました。(これらは、あくまでも、この先生の集計結果であって、さくらそう保育園のものではないことを、予めお断りしておきます) ・蚊に刺されるなど、些細な事で怒鳴ってくる。 ・子ども同士のけんかやトラブルに対して、一方的に相手が悪いと決めつける。 ・給食から、我が子の嫌いなものを抜いてほしい。 ・行事やイベントでのわが子の配役や順番を変えて欲しい。 ・トイレトレーニングや箸の持ち方などを園でしつけて欲しい。 ・子どもが気に入っているおもちゃを園にも置いてほしい。 ・保育士の態度やモラルも、クレームになる場合がある。 ・保育士が言い訳ばかりする。笑顔もなく冷たい。 ・保育士が子どもにも保護者にも挨拶しない。  私は、これを読んで、帚木先生の記事を思い出しました。よくある事例の保護者の方々は、素早く答えを出さなければならない中で、懸命に考え、暫定的な答を出したのですね。本当は、ゆっくり考えたいのだけれど、そういう訓練は受けてきて

2024/04/01(月) またいつもの生活が

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  はじめに、さだまさしさんの処女作で、グレープのデビュー曲となる、1973年10月25日発売の「雪の朝」の歌詞をご覧いただきます。 (1) 表は雪が降ってる 一面の薄化粧  君はまだ眠ったままで 夢でもみてるのかしら - 中略 - (2) 僕が少しまどろむと もう君は起きていて  ねえみてごらん雪だわと 君は幸せな人だ  曇りかけた ガラスを 君はその手で拭い  まるで子供みたいに 目を輝かせた  またいつもの生活が 始まるだけの朝なのに  頭の悪い私には、よくわからないのですが、なんだか哲学的な感じです。この歌、二番の歌詞の最後の一行、「またいつもの生活が 始まるだけの朝なのに…」が、どういう訳か、40年程前に聴いてから今まで、ずっと心に残っているのですよ。不思議です。  「またいつもの生活」なんて、現実の中には、たくさんありますよね。炊事、洗濯、掃除、出勤、買い物などなど…。そんなルーティンの時、私の頭の中では、「始まるだけの朝なのに…」というフレーズが流れるのでした。  でも、「それは、変化を求めようとする、若者特有の感性だったのではないか?」と思うようになりました。そして、60歳になった今は、「今日も、いつもの生活ができて、ありがとう」という感情になっているのです。だって、大病をしたり、経済が破綻したりしたら、いつもの生活は、できなくなってしまうんですから…。だから、「いつもと同じ生活も、実は、とっても幸せなことなんだ」と思えてくるのです。「めんどくさい」なんて、言ってられません。(「めんどくさい」と思う時もありますけどね…。)  思い出しました。私が40歳代の半ばだった頃、当時勤めていた職場を、自らの意思で辞めて、フリーランスになった時も、「いつもの生活ができなくなる」という現実に直面し、「ルーティンって、幸せなことなんだなあ」と、しみじみ思ったものでした。  そして今、世界のあちこちで、戦争が起こっています。戦争中こそ、「いつもと同じ生活ができる幸せを取り戻したい」と、誰もが願うことでしょう。  「今朝も、自宅で飼い鳥の糞の始末をさせていただけて、汚いけど幸せです」、「保育園でも、朝からスキンシップを求めてくる、何人ものお子さんを抱っこできて、重いけど幸せです」  しあわせは、心が決めるんですね。

2024/03/01(水) 流れ星、迷える子羊でいてね (ぱぱさん)

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 例年のことですが、毎年1月から3月にかけて、年長さんの保育士への甘えが、まあ激しくなりますねえ。私の膝の上にも、朝から乗ってきて、私の二の腕の筋肉(通称、振袖?)を触り続ける女の子がおりまして、「ぱぱさんと、なおさんと、おんなじくらい気持ちいい!」。私は、「そりゃ、熟成しすぎて、たるんでますから...(なおさん、ごめんなさい)」。そのあとは、私のお腹を触って、「お肉いっぱい~」。私は、「大トロでっせ!お金かけてまっせ!」。  きっと、私たち保育士も、無意識に「もうすぐ1年生なんだから」、「もう立派なお兄さん、お姉さんなんだから」と、年長さんに、何らかのプレッシャーをかけているのかもしれません。まあ、「その時になって困らないように、前もってやらせておく」、「予行演習」、これは親心というものなのかもしれません。子どもは、それを敏感に感じ取り、その反動として甘えてくるのだと思います。  「その時になって困らないように、前もってやらせておく」のがいいのか...、「そんなにやらなくても、その場になったら案外できちゃうもの」なのか...。「転ばぬ先の杖」か...、「案ずるより産むが易し」か...。これって、もしかしたら幸福論ですよね。キリスト教や仏教でも、それが核心部分で、「あんまり先、先と考えていたら、詰まってしまいますよ。その時になったら、考えればいいじゃありませんか。その方が幸せでは?」といったような教えが多い気がします。なんだか、ホッとします。  さくらそう保育園では、まだ見えないものを信じて、待つ保育を目指したいと思います。今はまだできないけれど、その時になれば、きっとできると信じて、見守る保育ができたらいいなと思います。「みんなと同じ行動が出来ない」という行為をすることによって、自分に降りかかるプレッシャーに何とか耐えているお友だちに対して、「3月31日までは流れ星、迷える子羊でいてね。」と、応援したいと思います。

2024/02/01(木) [ナナフシの話 ~朝日新聞(夕刊)2023/11/2(木)から~]

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  空を飛ぶことはできないナナフシですが、「鳥に食べられることで、鳥の糞の中で卵として生き延びて、分布を拡大させているのではないか?」というお話でした。通常、「鳥に食べられた昆虫は、体内の卵もろとも、生存の可能性を失う」というのが、セオリーのようです。ところが、ナナフシの卵は、それでも死なないのですね、すごいです。  文章の最後に、「決して鳥に食べられたいわけではないはずです」とありますので、鳥に食べられたくはないけれど、万一、食べられてしまった場合の第二の手段として、「鳥の糞の中で、卵として生きること」を考えているのでしょうか?  ともあれ、「生きるために死ぬ」とか、「死んでも死なない」とか、すごいキャッチフレーズが、私の頭の中を駆け回ってしまいました。  保育園は、今、幹部も保育士も、高齢化が進んでいます。それは、年をとっても働けるということでもあり、嬉しいことではありますが、一方、若返り、世代交代を考えていかなければならないともいえるでしょう。「生きるためには、死ぬことも必要なのでは?」と、ナナフシから教わった気がしました。