2022/04/01(金) このブログについて リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 3月 31, 2022 昨年度まで、代表のぱぱさんが書いてきた[気まぐれコラム]ですが、今年度からは、東領家園の管理者のすけさんと、朝日園の管理者のうめさんが加わって、三人で順番に書いていきたいと思います。それぞれの個性を活かした内容になると思いますので、どうぞご期待ください! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
2024/08/01(木) [実験] 7月 31, 2024 ある日の午前中、年長さんの女の子が、顔の眉間部分に横筋一本、鼻の一番高いところに横筋一本、計二本の傷をつけてしまい、その痛みで涙を流していました。なんで、そんなところに、傷をつけてしまったのか、保育士が尋ねたところ、「目をつぶって歩いていたら、ぶつかった」と言うことでした。 ぶつかった場所は、テラスの手すりのアルミ枠ということでした。検証したところ、女の子の二本の傷痕と、アルミ枠の位置が、高さも間隔もドンピシャで、ここでケガをしたことが判明しました。 ところで、この女の子は、なぜ、こんな行動に出たのでしょうか? 「アルミ枠にぶつかると痛い」ということは、年長さん(5歳児クラス)であれば、今までの経験で、十分に分かっているはずです。いったい、何が、彼女の判断を、狂わせてしまったのでしょうか? その時、私は、昔、担任をしていた、あるお子さんを思い出しました。そのお子さんは、保育中に高いところから飛び降りて、足をくじいてしまったのです。その時の言い分が、「目をつぶれば、痛くないかなぁと考えたけど、(飛んでみたら)痛かった」というものでした。 この二人の思考の共通点として、「見えるものが『有』であると仮定すれば、見えなければ『無』なのではないか?」という考えがあるように思いました。そのため、「目をつぶることで見えなくなれば、実態もなくなり、痛みも感じないのではないか?」という仮説に至ったのではないかと…。こうなったら、身をもって、実験を行うしかないのでしょう。かくして、自ら実験台となり、遂行したわけですね。そして、「目をつぶっても、痛いものは痛いんだ」という結論に至ったのでしょう。 読者の皆さんも、「分かっちゃいるけど、やめられない」こと、ありませんか? 私も、昔、感電を承知で、基盤に触って、100ボルトの電圧の洗礼を受けた記憶があります。 昨今、「マンションのバルコニーから、幼児が落下する」という事故がありますが、「もしかしたら、子どもたちは、実験のつもりで飛んでいる可能性も、あるのではないか?」と思うと、やり切れない気持ちで、いっぱいになります。日頃から、小さな過ちを積み重ねることで、大きな過ちを防ぐための知恵を、しっかりと身につけることができるのではないでしょうか? 話は戻って、「仮説を立てて、実証し、結果を導き、それを糧とする」という動きを... 続きを読む
2024/09/10(火) 今後のきまぐれコラムについて 9月 08, 2024 その時々の世の中の事象と、私たちが一生懸命やっている保育の間に、何か共通点みたいなものがあったら、書きたいなと思って始めたのが、本コラムでした。 2015年5月から2019年8月の「旧 気まぐれコラム」は、71本の執筆でした。2019年9月からは、ブログ版「きまぐれコラム」としてリニューアルし、2024年9月で、やはり71本を書きました。71本と71本、合計142本ということで、何気に感慨深いものを感じています。もっとも、全てを私ぱぱさんが書いたのではなく、ままさん、うめさん、すけさんの執筆もありますが…。 まあ、「きまぐれ」とは言いながらも、コンスタントに「月1本」を貫いてきました。しかしながら、昨今では、長い文章を読み込むという習慣が薄れてきているようで、Webの影響か、短くてキャッチ―な表現でないと、あまり受け入れられないようです。 そこで、今後は、タイトル通り、「きまぐれ」でいきたいと思います。「月1本」にこだわらないで、真に「きまぐれ」に配信をしていきたいと思います。そして、新しい原稿がない月は、今までの142本の中から、比較的良いと思われるものを、アーカイブで配信できたらと思っています。 まあ、のんびりやらせてください。 ぱぱ 続きを読む
2024/04/01(月) またいつもの生活が 3月 31, 2024 はじめに、さだまさしさんの処女作で、グレープのデビュー曲となる、1973年10月25日発売の「雪の朝」の歌詞をご覧いただきます。 (1) 表は雪が降ってる 一面の薄化粧 君はまだ眠ったままで 夢でもみてるのかしら - 中略 - (2) 僕が少しまどろむと もう君は起きていて ねえみてごらん雪だわと 君は幸せな人だ 曇りかけた ガラスを 君はその手で拭い まるで子供みたいに 目を輝かせた またいつもの生活が 始まるだけの朝なのに 頭の悪い私には、よくわからないのですが、なんだか哲学的な感じです。この歌、二番の歌詞の最後の一行、「またいつもの生活が 始まるだけの朝なのに…」が、どういう訳か、40年程前に聴いてから今まで、ずっと心に残っているのですよ。不思議です。 「またいつもの生活」なんて、現実の中には、たくさんありますよね。炊事、洗濯、掃除、出勤、買い物などなど…。そんなルーティンの時、私の頭の中では、「始まるだけの朝なのに…」というフレーズが流れるのでした。 でも、「それは、変化を求めようとする、若者特有の感性だったのではないか?」と思うようになりました。そして、60歳になった今は、「今日も、いつもの生活ができて、ありがとう」という感情になっているのです。だって、大病をしたり、経済が破綻したりしたら、いつもの生活は、できなくなってしまうんですから…。だから、「いつもと同じ生活も、実は、とっても幸せなことなんだ」と思えてくるのです。「めんどくさい」なんて、言ってられません。(「めんどくさい」と思う時もありますけどね…。) 思い出しました。私が40歳代の半ばだった頃、当時勤めていた職場を、自らの意思で辞めて、フリーランスになった時も、「いつもの生活ができなくなる」という現実に直面し、「ルーティンって、幸せなことなんだなあ」と、しみじみ思ったものでした。 そして今、世界のあちこちで、戦争が起こっています。戦争中こそ、「いつもと同じ生活ができる幸せを取り戻したい」と、誰もが願うことでしょう。 「今朝も、自宅で飼い鳥の糞の始末をさせていただけて、汚いけど幸せです」、「保育園でも、朝からスキンシップを求めてくる、何人ものお子さんを抱っこできて、重いけど幸せです」 しあわせは、心が決めるんですね。 続きを読む
コメント
コメントを投稿