2023/10/02(月) [どこでもバリア] (座談会シリーズ #6)

 (前回からのつづきです)

(なお)
 今、4・5歳児クラスでは、泥棒と警察、通称「ドロケイ」という追いかけっこが流行っています。最初は、泥棒役が逃げ疲れた時の救済措置として、「体操マットの上限定で、『バリア』を使って休むことができる」というルールを作りました。ところが、今は、警察役に追いつめられると、あらゆる場所で、「どこでもバリア!」と言って、体の前で両腕をバッテンにするポーズをとるようになったのです。その「どこでもバリア!」が出ると、警察役は泥棒役を捕まえることができません。そんな理不尽なルールが、横行してしまったのです。

(ぱぱ)
 当然、警察役からは文句が出るでしょう?

(なお)
 ところが、4歳組のA君は、「どこでもバリア!」が出ると、素直に受け止めて、違う泥棒を追いかけようとするのです。

(ぱぱ)
 それはまあ、素直というか、お人良しというか…。状況が見えていないからこそ、とも言えますね。

(なお)
 一方、5歳組のB君の場合は、理不尽だと分かったので、長い間、大号泣が続きました。その声があまりにも大きいので、ドロケイは一時中止に追い込まれました。B君の気持ちもわかるし、早く再開したいという、お友だちたちの思いも大事にしたいし、頭を悩ませているわけです。

(ぱぱ)
 B君が泥棒役になった時も、「どこでもバリア!」を使いますか?

(なお)
 最初は使わなかったんですが、そのうちに「どこでもバリア!」を使うようになってきたのです。警察役から見れば、言語道断のルールですが、泥棒役から見れば、なんともおいしい蜜の味ということが分かってきたようですね。あの大号泣も、過去の話になりました。個人的には、大泣きしてたB君が愛おしいです。

(ぱぱ)
 そうやって、「立場の違いによる、受け止め方の違い」に気づき、視野が広がっていくのですね。相手の思いが理解できるというのは、すごい学びだと思います。一方、あの大号泣のような魂の激震は、相手の思いが理解できることと引き換えに、少なくなっていくのでしょうね。そこに、一抹の寂しさは覚えますが、「育つ」とは、そういうことなのでしょう。

(なお)
 そうですね…。3階では、そのようなできごとが、ドロケイ中、多発的に起こるので、奮闘する日々です。今は、一時中止になるお子さんたちへの対応として、できれば、ゲームを邪魔しない場所に移動してもらって、私が対応することにしています。そして、もう一人の保育士に、ゲームを中断させないような関りを担ってもらっています。

(ぱぱ)
 いつの日か、「『どこでもバリア!』は、もうやめようよ~」という声が、お子さんたちから出てくるかもしれませんね。ともあれ、「どこでもバリア!」が出てきた時に、それを大人がジャッジして、「どこでもバリアは、使ってはいけません」としてしまったら、ここまでの経験や学びは起きなかったかもしれません。そこが、とても素敵だと思います。

(なお)
 お子さんたちに、「なおさんは、どこでもバリアを使ってはいけないと思いましたが、皆さんはどう思いますか?」と、はっきり提案した方が良かったのかな?と反省することもあり、モヤモヤしています。

(ぱぱ)
 そのやり方も、ありだと思いますよ。「使ってはいけません」と言い放ってしまうと、命令になってしまって、子どもは反論できないので、かわいそうだなぁと思います。でも、「私は○○と思いましたが、あなたはどう思いますか?」というのは、おっしゃる通り提案で、子どもなりの言い分を語ってもらい、保育士がそれを聞く余地が残されています。

(なお)
 「やり方は一つだけではない」というのは、心が休まります。

(ぱぱ)
 やり方が違えば、その後の進展にも違いは出てくるでしょう。保育って、本当に奥が深いですね。


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